ねこのひげ

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zoom RSS 秀吉(ヒデヨシ)と安国寺恵瓊(アンコクジエケイ)

<<   作成日時 : 2010/03/16 04:13   >>

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まるで、大河ドラマか小説のようなタイトルでありますが・・・・。
安国寺恵瓊(アンコクジエケイ)というのは、広島出身の僧侶で戦国武将です。戦国時代の末期、毛利氏に滅ぼされた安芸武田氏の最後の生き残りの若様だったと言われてました。
安芸というのは広島のことです。
武田氏というのは、甲斐武田氏が本家で、その分家が広島に領地を貰って、守護領主となり、安芸(広島)武田氏となったのです。
安国寺というのは、現在の広島市牛田にある不動院のことです。
ねこのひげは、この不動院の近くで生まれました。
江戸時代からあった家。原爆で燃えてしまうまでの家には、秀吉が泊まったときにくれた茶碗や恵瓊の書いたという掛け軸があったそうです。
原爆の爆風で家が傾き、そのあとの熱風で家ごとすべて燃えてしまったそうです。子供のころ溶けた茶碗や当時の通貨『永楽通宝』が何十枚も溶けて固まっているのを見せられたことがあります。
(ねこのひげは、戦後生まれなので、直接原爆のことは知りません。しかし、核兵器の力というのは恐ろしいものだと子供心に感じました。
広島市内の爆心地から家までは5,6キロあったそうですが、その間の建物から一木一草、すべて焼けてなくなっていたそうです。)


で、歴史ブームで歴女が最近の流行ということでもあり、安国寺恵瓊のことなどを書いてみるかなと思ったわけです。


安国寺恵瓊は、武田氏が滅びるとき、毛利氏の追及から逃れ、僧になり、大名にまでなった人物です。

僧侶というか坊さんというのは、現代では、宗教家&葬式屋ていどの認識しかありませんが、そういった認識というのは、平和になった江戸時代ぐらいから確定してきたものなんですね。

徳川幕府によって日本に平和が訪れるまでは、僧侶というのは、あらゆる知識の代表者のような存在でした。

宗教家であると同時に学者であり医者であり、政治家であり、軍人でもありました。

いまのイメージとはかなり違います。

紀元前のギリシャ時代の哲学者、ソクラテスやプラトンも学者だけとしてではなく、オリンピックにも出れるような筋肉隆々の体形をしてました。
現代では、学者というのは運動オンチの貧弱な体形をしていると考えられがちですが、とうじは、博学でスポーツ万能でないと賢人としては認められなかったのです。


昔の僧侶の事だけでなく、現在の出来事や事件でも、自分のイメージだけというか定規だけで測ると、間違った認識や考えを持つことになりますので気をつけなければいけません。

物事には、色々な側面があるということです。井戸の底から空を眺めているようではダメです。

最近、ひとつの面だけ見て、ヒステリックに攻め立てる狭量な人間が多いのにはあきれます。

自分が間違っているかもしれないと露ほども考えないようです。

だから、誤認逮捕や医療事故なんてことが頻繁に起きるわけです。


物でいえば奈良の大仏。最近、大阪市の『難波宮跡公園』に創建当時の大仏が再現されました。
(NHKの4月のスペシャルドラマ『大仏開眼』用だそうですけどね。)


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現在の大仏は・・・

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ねっ、いまの大仏とは、相当違います。

自分が信じていることも、もしかしたら、こういう違いがあるかもしれないということを、よく考えないとダメということです。





当時のほとんどの人間は、文字を読むことも書くことも出来ませんでした。文字は一部の人間。僧侶や貴族階級のものでした。侍も読んだり書いたりできないのが大勢いました。

だから、僧侶に読んでもらい、書いてある内容を教えてもらいました。

僧侶というのは、仏教の勉強を目的として中国に渡っていましたから、漢字が読めるわけです。漢字が読めなければ仏教の経典が読めませんからね。いまでも経典は漢字だけで書いてあります。それに、中国語が話せなければ、仏教の教えも中国の坊さんから聞くことができません。

漢字は日本だけでなく朝鮮半島から東南アジアまでも通じる東洋における万国共通語みたいなものでしたからね。

当時としては英語より広い地域と人口に使われていた言語でしょうね。

だから、漢字の読み書きのできる僧侶は、自然と力を持っていったわけです。

その頂点に立っていたのが、日本では最澄の開いた比叡山の僧侶でした。



絶大なる権力を持っていたはずの白河天皇でさえも『朕(チン=ワタシ)が、この世でままならぬのは、鴨川の流れとさいの目と山法師』と詠ったくらいです。
鴨川の流れというのは鴨川の引き起こす水害。さいの目というのはすごろくのサイコロの目。山法師というのは、比叡山延暦寺の僧兵のことです。

それだけ僧侶というのは力があったということです。

そのうえ、比叡山には、中国からのありとあらゆる書物が集まってきますから、野心はあっても、商人になる財力や武士になる体力のない人間は僧侶になるのが一番でした。

比叡山には施薬院という病気の僧や信者のために薬をあつかう寺もあり、そこから医者になった『全宗』のような僧侶もいます。

心の救済だけでなく、実際の病気を治すことにより信者を増やしていたわけです。キリスト教でもおなじ方法で信者を増やしてました。

金持ちの商人の病気を治してやれば、寄付が山のようにきます。大名の病気を治せば、その宗教のために寺院を建設してくれたり、守ってくれます。

書庫には、『史記』のような歴史書や『孫子の兵法』のような兵法書もあったので、軍事のほうにも長けていた僧侶もいたのです。
戦争のとき、軍事顧問として参加した僧侶もいました。

持っている知識で金儲けもして財力まであったので鬼に金棒だったわけです。

さらに、比叡山の僧侶は、金の力で、兵隊や武器を集めて戦闘力も持っていました。

これが『僧兵』です。

宮本武蔵(バカボンド)で有名な法蔵院槍術も僧兵が考案した槍術です。(こちらは奈良ですが)

紀伊(いまの和歌山県)の根来寺の領地は75万石あったといわれ、僧兵は1万人以上の規模で、根来衆と呼ばれる鉄砲部隊を作って傭兵としてあちこちの大名たちに武力を売っていました。
(そういえば、3月下旬あたりに、この根来で、紀州鉄砲まつりをやるとか・・・・歴史好きな人は行って見るといいかも。)



僧侶を力の弱い人間と考えてはいけません。


生半可な大名など足元にも及ばない力を持っていたのです。織田信長も手こずります。

とうぜん、遊女も多数集めてました。酒も般若湯とか言って飲んでました。

ある意味やりたい放題なことをしていました。現代でも似たような宗教団体がいくつもありますが。


おかげで、頭にきた織田信長に比叡山は攻撃されて火をつけられ大量虐殺されるわけです。いまの浄土真宗、一向宗も同じ目にあいます。

それ以前にも、将軍や大名で攻撃したのがいますが、手に負えなかったのです。

それだけお寺の力というのは強大だったのです。

当時の権力には三つあり、天皇を中心とした貴族権力。将軍を中心とした武士権力。比叡山を中心とした宗教権力があったのです。

その三つの頂点に立とうとしたのが織田信長です。

はっきり言って、宮本武蔵などの剣豪と言われている連中はその他大勢の雑魚です。小説家吉川英治が作り上げた虚像ともいえます。(こういうこと書くと怒る奴大勢いるだろうな・・・・)


だから、毛利氏に滅ぼされた武田氏の生き残りであった少年恵瓊はお寺に逃げ込んだのです。

その寺が安国寺(不動院)で、そこで僧侶になり、のちに京都の東福寺に入り、毛利氏と親しかった恵心の弟子になります。

坊さんになって助かった人間は他にも大勢います。天皇や将軍でさえも、坊さんになることにより命を永らえることができたのがいます。

いまでも負けたりすると、頭を丸めて坊主にするのはこのあたりに由来するわけです。

世間とは違う世界にはいたから、とりあえず許してやろうというところがあったようです。


恵瓊は、僧侶として成長したのち、恵心の後を次いで毛利氏に使えるようになります。

この毛利氏というのは面白いですね。尼子氏を滅ぼしておきながら、尼子氏の当主や家来だった人間を許して雇っています。

尼子氏は改名して福永氏として毛利氏の重臣となります。ねこのひげのご先祖様もその1人だったわけですけどね。尼子氏の一家老だったそうです。だから、家(屋敷)に、秀吉を泊めて茶碗を貰ったわけです。

恵瓊も毛利氏が滅ぼした武田氏の人間ですが、恵心の紹介で僧侶として使っています。

中国地方の一豪族だった毛利氏を一代で中国地方を支配した大大名にした毛利元就というのは、心が広かったんですかね?(1997年に中村橋之助主演でNHKの大河ドラマにもなっているからおもしろい人物だったには違いありません。)


大名に仕えた僧侶というのは、主に外交を担当しました。当時の大名達は、そうした僧侶を何人か抱えてました。

大名の外交官の役目をする僧侶は『使僧』と呼ばれてました。

僧侶は、そのもてる豊富な知識を活用して、外交交渉をしたわけです。もちろん、それによって大名から寺を守ってもらい多額の報酬を得ることができたわけです。

武器を持たず単身敵地に乗り込んで交渉をしてくるので、こういう僧侶を殺さないのが不文律として確立していました。
いまでも、外交官や大使館は、不可侵ですが、このころの日本でもそうだったわけです。

血の気の多い侍同志では和平交渉の場でも、斬り合いになり、そこからまたふたたび戦争が始まることがあったので、当事者ではない僧侶が重宝がられたわけです。


侍というのは殺しあうのが商売ですからね。

剣によって心を磨くなどというのは、平和な時代の生き残りのための屁理屈です。剣術というのは、どうやって相手を殺すかの技術です。

柔道の前身である柔術も戦場での素手の戦いから生まれた殺し合いの技術です。『組み討ち』とか『取手』とか呼ばれていました。

だからこそ、武術を使える人間は、心を強くして使ってはならないということですが、スポーツ系や武術系は、単細胞が多くて使う奴が多いのが困りものです。

心と体、両方を鍛えないとダメということですけどね。

礼に始まり礼に終わると言われるのは、それが理由なんですけどね。


これが、なかなか・・・・・自分で言いながら守ってない奴が多いですね。


おまえもだろ!と言われれば返す言葉がありませんが。(^^ゞ




安国寺恵瓊も、あちこち飛び回っては交渉にあたり毛利氏の中で力をつけて行きます。

恵瓊を有名にしたのは、織田信長と木下籐吉郎(後の豊臣秀吉)にあったときに、二人の印象について、毛利元就の家来の井上春忠に書き送った手紙によってです。

『・・・・・・信長公は、5年3年の間、もたるべく候・・・・高ころびにあおのけに転ばるると見え候。籐吉郎はさりとてはの君にて候・・・・・』

今風に言うと
『・・・・・織田信長は天下を取っていい気になって、のぼせ上がって威張っているから、5年か3年しか持たないだろうな。いずれは、ひどい失敗して駄目になるだろう。織田信長の家来である木下籐吉郎は、只者ではない。こいつのほうが大物であると思う。・・・・・』
というようなことを文章で書き送っているのです。

まあ、いまの政権にたいして言えば、誰でもそう思うさと言われそうですけどね。織田信長のような暴君はいても、豊臣秀吉はいそうにないからガッカリ度100パーセントですかね。

そして、この予言は見事に当たり、織田信長は3年後に本能寺で殺され、豊臣秀吉は、5年後に天下人になります。

これにより、安国寺恵瓊の名声は高まり、豊臣秀吉も恵瓊を重用し、安国寺や東福寺などの寺を与え、領土を与え、恵瓊は、豊臣秀吉の外交官として活躍し、ついに伊予(現在の愛媛県)6万石の大名となります。


この後が、二人にとって問題ですけどね。

天下を取るまでは、秀吉も、”サルの人たらし”といわれるくらい、あらゆる人に気を使う気遣いの人間だったのです。

なんせ、尾張の中村村の百姓の息子だったのですから、体力も財力もありませんでしたから、ともかく人に頭を下げるしかなかったのです。

頭のよさと愛想のよさだけが取り得です。秀吉は、頭を下げまくって人に取り入り、知恵を絞ってのし上がっていきました。

秀吉も恵瓊も、裸一貫というところでは、似た物同士だったので気が合ったのかもしれません。


豊臣秀吉は、日本全国をほぼ手中にしたあと、中国(明)に攻めるために、朝鮮半島に進出します。

日本をやっと統一したばかりなのに、よその国を侵略しようとするのですから、秀吉は歳をとってボケたのではないかと、家来になった全員が思っていたようですが、逆らったら殺されるので、みんな黙っていたわけです。

天下を取った後、織田信長とおなじような”暴君”になってしまったわけです。

成り上がり者にありがちな誇大妄想というやつです。

現代でも、実によく似た人間が何人もいますがね。

政治家のあいつとか・・・・・芸能界のこいつとか・・・・・・元角界のそいつとか・・・・・

なかには、なんの実績もないのに勘違いして、事件を起こす救いようのない奴もいますが・・・・。


恵瓊さえも、せっかく大名になれたのに、秀吉に、苦言を呈して怒らせたらかなわないので黙っていたわけです。

でも、意見をして追い出されていれば、”関が原の戦い”で負けて殺されることもなかったと思うんですけどね。

案外、徳川家康にとりいって徳川方になって、江戸時代も大名として生き残れたかもしれません。

でなくても一僧侶として比叡山の隅か広島の山奥の寺で生きながらえたかもしれません。

そういう生き方を望んでいれば、最初から野心など持たなかったかもしれませんけどね。


人間、頂点に立って、地位も財産も手に入れると、欲が出て、とかく人生を見誤るもののようですね。


恵瓊の墓は、広島の安国寺いまの不動院にあるそうです。



安国寺が、不動院と改名したのは、徳川幕府になって、毛利氏が長州に移動させられ、福島正則が広島の藩主となった時、宗派を禅宗から福島氏の宗派である真言宗に変更されたためです。

長州とは、いまの山口県のことです。

長州藩になった毛利氏は、250年後の幕末に、薩摩藩と組んで、徳川家に敵討ちをするわけです。

いまでも多くの政治家に山口県や広島県出身が多いのはこのあたりによるのかもしれません。



現在、恵瓊の安芸武田氏の城、『銀山城』のあった銀山は、武田山という名前に変わっています。



この武田山は、当時は銀が出たので、”銀山”と言われていたのですが、、ねこのひげのひいおばあさんによると、この山のどこかに、尼子氏の家臣。つまりねこのひげの先祖が、尼子氏の家宝の『銀の茶釜』を埋めて隠したという伝授があったそうです。

豊臣秀吉は、”金の茶室”と”金の茶釜”を作ったのですが、尼子氏は、石見銀山という銀の産出量日本一の銀山を所有していたので『銀の茶釜』を作ったようです。

大学生のとき、思い出して、友人2人と登ってウロウロしてみましたが見つかりませんでした。

まあ、本当だったとしても、そうそう簡単に見つかるわけはありませんけどね。

エジプトの王家の谷みたいに、埋められた直後か、江戸時代あたりに盗掘されている可能性も大ですしね。


ひいおばあさんは、小学生のときに亡くなっているので確認のしようがありませんが、ハイキングがてら、銀山城跡あたりを歩いてみたわけです。



                                    

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
とても興味深く拝見しました。
勉強になりました有難うございます。
私の生家の近くには武田信玄公の
お館(おやかた)があるんですよ。

Maria
2010/03/19 01:10
Mariaさんは山梨のお生まれですか。
山梨はバイクでなんどか行きました。
恵林寺から武田神社、積翠寺・・・そのあと温泉に浸かりながら、富士山を眺めてのんびり
至福のときでした。
ねこのひげ
2010/03/19 05:05

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